代表作“ムーラン・ド・ラ・ギャレット”をはじめ数々の名画を残している絵画作家「ルノアール」。
彼の芸術に対する思想や人生観はどのようなものだったのでしょうか...。
絵画マイアートの作家特集第1弾として、「ルノアール」をご紹介いたします。
真珠色の肌を描く絵画作家 : ルノアール RENOIR(1841-1919) |
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ルノアールが感銘を受けた イノサンの泉に施された彫刻 ![]() ルノアール34歳の時に描いた絵画(1875年) 【ピアノを弾く若い女】 | ■誕生から少年時代---------- 偉大なる印象画家となる「ルノアール」は、1841年2月25日、仕立屋の父と、針仕事をする母の6番目の子供としてフランスで生まれました。 ルノアールが3歳の時、家族はパリに移り住み幼少期を過ごします。 芸術家の才覚を現し始めたのは9歳からのことです。 初めて才覚を現したのは音楽でした。 小学校の音楽教師は音楽家に育てようとしたそうです。 しかし両親は、ルノアールが13歳のころ、すでに物を描く才能も示していた彼を、陶磁器の絵付け師のもとにあずけました。 ルノアールは、みるみるその才能を発揮していきました。 花模様の飾り付けから始まり、マリー・アントワネットの肖像を描くまでに腕をあげ、ルノアールが絵付けした磁器はかなりの人気があったそうです。 ルノアールは、絵付け職人としての修行のかたわら、デッサンの夜間教室に通い様々な芸術を学び習得していきます。 そんな中、ルノアールはイノサンの泉の塔に施された女性像に強く衝撃を受けます。 それは16世紀フランスの彫刻家「ジャン・グージョン」が彫ったものでした。 いにしえの芸術作品から刺激をうけながら仕事と勉学に励むルノアールでしたが、絵付けの機械化が進み職人としての腕は揮えなくなりました。 お店の装飾や扇子の絵を描く日々が続いていたある日、街で見かけた広告から布製の日除けに絵を描く画家としての職につくことができました。 ルノアールの才能はここでも発揮され、かなりの収入を得ることになります。 これはルノアール18歳の時です。 | ■周辺社会 フランス2月革命。 スエズ運河会社が設立され、インドとイギリスの支配下となる。 イタリア統一戦争が勃発。 ■活躍していた芸術家
時代は18世紀後半から19世紀前半。美術様式は大きな変動の時期を迎えていました。ロココ、新古典主義、ロマン主義等の18世紀の美術様式から、後に 印象派とよばれる画家達が活躍し始めた頃です。 | ||||||
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![]() ルノアール34歳の時に描いた絵画(1875年) 【エチュード若い女のトルソ、陽の効果】 ![]() ルノアール35歳の時に描いた絵画(1876年) 【じょうろをもつ少女】 ![]() ルノアール35歳の時に描いた絵画(1876年) 【アニエールのセーヌ河】 ![]() ルノアール35歳の時に描いた絵画 (1876年) 【ぶらんこ】 | ■青年時代(20歳〜40歳)---------- 21歳の時、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学。数々のコンクールですばらしい成績を残しています。 ルノアールには、芸術について語り合う良き友がいました。エコール・デ・ボザールの学友、モネやシスレー達です。 彼らはルーブル美術館に足を運び、ブーシェやフラゴナールの絵画を模写したり、放課後にカフェで芸術に対する持論などを戦わせていたそうです。 この頃、ルノアールは家族と離れ自活生活をするようになります。 シスレーと共同生活をしていたことが有名ですが、シスレーの結婚をきっかけにアトリエに間借りするなどして住まいは転々とします。 「女好き」でも名が通っているルノアールですが、作品からは、同じモデルが題材になったものが多くみられます。 24歳の時に出会った「リーズ」という女性は、長い間ルノアールのモデルとして作品に登場します。 27歳の時、サロンに出展した「日傘のリーズ」が入選。多少の肖像画の注文を受けて収入を得ますが、暮らしぶりはなかなか良くなりません。 しかし、芸術に対する意気は消沈することなく、博識の高い文学者や芸術家マネ、セザンヌらと交流をもち、自分の芸術観の完成を目指します。 この頃のルノアールの画風は、ドラクロワやアングルに着想を得たものが多く、俗に言う「ルノアールらしい」という画風はまだ完成されていません。 29歳の時に描いた「オダリスク」が、またサロンで入選を果たしますが、戦争が始まり、出兵させられます。 しかし、翌年に大病を患い除隊。 療養後、パリで暮らし始めます。 戦争が終わり社会情勢が落ち着くと同時に、印象派の画家達は目立った活動を始めます。 ルノアールが33歳の時、“第1回印象派展”が開催されました。 セザンヌ、ドガ、モネ、ピサロなど今に伝えるすばらしい画家達が参加した展覧会でしたが、世間からは激しい反発を受けます。 ルノアールが出展した作品からは、「桟敷席」など3枚の絵が売れました。 暮らしぶりは相変わらず安定せず仲間達と売り立てをしたりしました。 大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の構想が練られたのはこの時期です。ムーラン・ド・ラ・ギャレットとは、パリのモンマルトルの丘にある舞台場です。経営者や仲間達の協力を得て、ルノアール35歳の時に完成します。 ルノアールが38歳の時、サロンに出展した「シャルパンティエ夫人」「ジャンヌ・サマリーの立像」が好評を得ました。 また、ルノアールの芸術に対する思想や作品を支持する論文が弟によって発表され、雑誌で特集記事も掲載されました。 | ■周辺社会 ビスマルクが主相となる。 リンカーンによる奴隷解放。 ノーベルがダイナマイトを発明。 マルクスの資本主義が浸透。 スペイン革命。 スエズ運河開通。 普仏戦争勃発。 ドイツ帝国成立。 ロシア、トルコ戦争が勃発。 ■活躍していた芸術家
のちに “印象派”と呼ばれる画家達は、新しい芸術表現を支持されるまで時間がかかりました。 いつの時代もそうですが、改新に近い変化を遂げようとする時、多くの人々はすぐにそれを受ける入れることができません。 印象派とは、「自然に向かって窓を開いた」と言われています。 陽の光や空気、時間までもをキャンバスの中で表現しようとし、街並みの情景や人々の生活模様を描写する画家達が増えていきました。 画家達は、世間からの批判を受けながら様々な葛藤を乗り越え、暮らしぶりが豊かでなくとも、自分の信じる表現方法の完成を目指し、追求していったのです。 |
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![]() ルノアール35歳の時に描いた絵画(1876年) 【ムーラン・ド・ラ・ギャレット】 ![]() ルノアール40歳の時に描いた絵画(1881年) 【舟遊びする人々の昼食】 ![]() ルノアール40歳くらいの時に描いた絵画(1881年〜) 【雨傘】 ![]() ルノアール51歳の時に描いた絵画(1892年) 【ピアノに寄る娘たち】 | ■中年時代(40歳〜60歳)---------- ルノアールは40歳になったその年の1年間、パリを離れアルジェリアやイタリアに旅に出ます。 目新しい景色や生活ぶり、華やかな人達に刺激を受け、また、各地の美術館にも訪れています。 この頃のルノアールの画風も、俗に言う「真珠色の肌」ではなく、水面に映る陽の光や、反射した光を風景画で芸術を表現していた時代でした。 翌年の41歳の時に、ルノアールは「アリーヌ」という女性と結婚します。 ルノアール42歳。1883年に、彼は製作に深刻な危機を向かえ、作風が一転します。 「硬い線の時代」と彼は言っていたそうですが、「ルノアールのアングル時代」と呼ばれています。 周囲の印象派画家達が唱える “光や空気の表現” にルノアールは疑問を感じ始め、屋外制作や従来表現方法を軽んじるようになります。 自分なりの“印象派”を追求していった結果、構図やデッサンの正確さを求めるようになりました。 ルーブル美術館素画室に所蔵されている「女性大水浴図」がこの頃描かれたもので、アングルの影響を強く受けているのがみてとれます。 画風の転機はさらに訪れます。きっかけとなったのは、ルノアールに初めての子供が誕生し、父親となった事でした。ルノアールが44歳の時で、息子のデッサンを数多く描き、「母性」シリーズとしてたくさんの作品を残しています。 活発な活動期が続き、たくさんの裸婦や「大きな浴女たち」、「花束を持つ少女」等の作品が描かれています。暮らしぶりも多少豊かになっていました。 47歳の時、一時的なスランプに陥りますが、アングル様式から抜け出すと同時に、それまで追求してきた線に対する感覚を失うことなく進化していきます。 これを機に「真珠色の時代」が開花するのです。 50歳を向かえ、名実ともに芸術家としての成功の道を辿っていきます。 何度かルノーアルに好意的な論文が発表されたのをきっかけに、画廊での大規模な展覧会が催されました。 「ピアノに寄る娘たち」は政府によって買上となったくらいです。 これまで彼に協力的だった友人の死、母の死などの苦悩はありましたが、新しいアトリエを持ったり住まいを購入したり、また、次男の誕生など、生活はとても豊かになりました。 ところが、ルノアール56歳の時、彼の芸術家人生を揺るがす事件が起こります。 それは、自転車での事故でした。 この事故で、彼は右腕を骨折し、20年間後遺症のリューマチで悩まされることになるのです。 温泉治療や暖かい住まいへの引越しなどで治癒を目差すものの、病魔は確実に彼の体を蝕んでいき、右腕は完全に不能、四肢全体に疾患がでました。 59歳の時、政府から勲章を授かります。ルノアールにとって心から喜ばし受賞ではなかったものの、名実共に芸術家として成功を遂げたと言える出来事でした。 | ■周辺社会 フランスがチュニジアを占領。 ドイツ、オーストリア、イタリアが3国同盟を結ぶ。 結核菌の発見。 コレラ菌の発見。 エッフェル塔の建設。 世界各地でメーデーが行われる。 日清戦争勃発。 レントゲンがX線を発見。 ギリシャ・トルコ戦争勃発。 ■活躍していた芸術家
ルノアールより以前には、人々の日常生活の模様を構図として大々的に取り上げる画家はいなかったと言われています。 彼は「人間を引き付けるものといえばただひとつしかない、それは人間だ。」というパスカルの言葉をよく引用したことから、同じ印象派時代を生きたモネやゴッホと比べ、彼の作品は肖像画がほとんどです。 |
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![]() 【赤ん坊の食事】 ![]() 【ばら色と青】 ![]() 【リンゴ】
【イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢】
| ■晩年(60歳〜)---------- 住まいとアトリエは、ルノアールの病状に合わせて転々とします。 体の調子が良いときは、薔薇と裸婦を描いたり、三男の誕生をきっかけに家族や子供を題材にする作品を描いていました。 63歳になる頃には、激しい発作が起きると長時間座っている事もままならない厳しい状態になってしまいます。 しかし、どんな厳しい苦痛や闘病でも、彼の芸術に対する意気は消沈することはありませんでした。 親しい友人との談合や家族との生活の中で彼は癒され、作品への思い入れや芸術に対する思想が病魔とはうらはらに高まっていきます。 その事を実証するかのように、66歳の時に開かれた売り立てで、相場では最高額であった値が彼の絵につけられます。 67歳の頃、ルノアールは 不自由な体を抱えながらも彫刻の制作を試みています。しかし、体を使った作業が多い彫刻は、体に背負ったハンデキャップが邪魔をしました。 絵画においては、この頃もよく裸婦を描いていましたが、神話に興味をもちはじめ、美しいポーズや気高さを表現しています。 ルノアール70歳。 四肢は完全に硬直し、車椅子生活がはじまります。歩くことも筆を持つことも困難になった彼ですが、親指と人差指に筆を縛りつけキャンバスに向かいます。 治療でなんとか歩行は可能になりますが、ルノアールは自分の残されたエネルギーを “描く” ことに集中させる決意をします。 体の不調に反して、すばらしい作品を描いていくルノアール。 彼の作品に対しての評価は、今や絶頂の時を迎えます。 彼を良く知る画家は、「病いの進行と時を同じくして、彼の芸術が開花していった」と述べています。 ルノアール76歳。 厳しい社会情勢の中、妻の死を乗り越えたルノアールは「病める画家」として有名になっていました。 見舞いにくる客との雑談が楽しみで、彼の生活に張合いを与えました。 78歳になった年、ルノアールはパリを訪れます。 思い出深い学生時代、学友とともに何度も足を運んだ場所、彼の作品に影響を与えた芸術作品が並ぶ場所 “ルーブル美術館” に 「絵画の法王:オマージュ」としてルノアールは招かれます。 彼だけの為に開館されたルーブル美術館は、荘重で「絵画の法王:オマージュ」にふさわしいものだった事でしょう。 その年の秋、自宅に戻ったルノアールは昏睡状態となり、12月3日の午前2時、息をひきとります。 ルノアールは、昏睡状態の中でもデッサン用の鉛筆を求め続けていたそうです。 参考資料: 中山 公男 著 「25人の画家 9 ルノアール」 ウィリアム・ゴーント 著 「ルノアール」 | ■周辺社会 ノーベル賞の制定。 ライト兄弟の飛行機実験。 日露戦争勃発。 イタリア・トルコ戦争勃発。 第一次世界大戦勃発。 ロシア革命。 ヴェルサイユ講和条約の調印。 ■活躍していた芸術家
ルノアールは「悲しみを描いたことのない画家」としても知られています。 どんなに暮らしが貧しくとも、どんなに体の自由がきかなくなろうとも、彼の描く作品からは優しく微笑む母親の表情や、光り輝く子供の笑顔がみてとれます。 人付き合いが好きだったルノアール、芸術家仲間との談合が好きだったルノアール、家族を愛し、自分の体が朽ちようとも絵筆を離さなかったルノアール。 今を生きる私達は、彼の作品から得るものに感嘆し、それを伝える義務があります。 いち芸術家として「絵画の法王:オマージュ」と称えられる理由とは、作品のすばらしさだけではなく、芸術を開花させる意志力、芸術と向き合った人生そのもの、まさに “芸術家とは” の答えとイコールになるのではないでしょうか。 |